安心・安全・自由は獲得するもの

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tetsuです。

今日はimg先輩との会食で🍖でした。行きつけのステーキ店です。

印象に残った会話。
tetsu「僕たち50代の発言って30代の若者にとっては重たいんでしょうね。特にそれが上司ともなれば、より発言力や影響力が増してしまうでしょうし、それを意識しないと要らぬプレッシャーに晒してしまうことになるのでしょうね。」
img先輩「tetsu君前に言っていたよね、『象にじゃれられても』って。」
tetsu「あっ、それってαモーニング京都のDJだった(故)佐藤弘樹さんの言葉ですよ、正直で謙虚でいることは美徳かもしれませんが、自分の影響力を理解しないと無意識に若者を潰してしまうってことかな。」
img先輩「更にtetsu君が昔言っていた、嫁姑問題は姑が自分の立場や影響力を理解せずに、嫁に対してフレンドリーに接することが問題の核心だってことを思い出すわ。」
tetsu「えっ、そんなこと言ってましたっけ?全然覚えてないなぁ…」

今の我が家では嫁(kumi)と姑(私の実母)の間で問題は皆無です。最初は少しあったかもしれませんが徐々に馴染んでいって、今や私よりkumiの方が姑の味方をするくらいです。だから忘れていったのでしょうね。でも、私が約20年前にした話をimg先輩が覚えているなんてビックリです。

いろいろ仕事の話をしたのですが、帰って風呂に入りながら思いついたのがタイトルにもした「安心・安全・自由は獲得するもの」です。

最近の世の中は少数派・弱者が守られるようになってきたと感じます。特徴的な例だとLGBTQや障害者が少数派として異端者扱いされたり、労働者が弱者として搾取されたりした時代が長かったと思いますが、それらを世の中が受け入れだして、良い方向に進んでいると感じます。

でも、一方でその反動として弱者側にいた者の一部が「弱者である自分の主張が通るのは当然の権利である」と思い込んで、サービスの提供者や職場の役職者に対して過剰な要求をするケースを目の当たりにすることがあります。例えばカスタマーハラスメントです。

先人たちは安心・安全・自由を(多くの人が)獲得できる世の中にするために命を懸けて闘ってきたのだと思います。そうして苦労の末に良い状態になった現代で、今しか知らない人間がそれが当たり前の如く受け取って、それは権利であると思ってしまうのかもしれませんね。

やはり、弱者が救われる世の中って歴史的に見れば奇跡的に素晴らしいタイミングだと思うのですが、こんなもんは放っておいたら直ぐに権力者によって駆逐されてしまうので、当然であると思わずに、良い状態を継続するために考えて行動して努力するべきだと思います。先人がゼロから安心・安全・自由を獲得した労力よりは継続する労力の方が各段に少ないと思いますから。

「感謝」の反対は「当たり前」ってどこかで見ました。今の良い状況が「当たり前」って捉えて、当然のように権利を主張して、歴史や経過や成り立ちや仕組みやルールを知ろうとする努力もしない人間にならないように自分を律していかなければなりません。「感謝」が大事だと思います。

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